彼女の福音
壱 − ハッピーエンドの舞台裏 −
「今日はみんなに久しぶりに会えて楽しかったよ」
僕は少し赤くなった顔で笑った。
「気を付けて帰れよ。動物園のみんなによろしくな」
「僕は動物園に住んでねえよ!」
「天然記念物じゃないのか?」
「違うよっ!」
「二人ともあまり大声を出すな。恥ずかしいぞ」
岡崎といつもの漫才をやっていると、智代ちゃんがため息をついた。
「しっかし椋ちゃんきれいだったよなぁ」
「ああ。素敵なドレスだった」
「まあ、そうだな。きれいだった」
岡崎が頷いたとたん、智代ちゃんの目が光った。
「朋也、今、椋のウェディングドレスの方が私の時よりも輝いて見えたと言わなかったか?」
「え、いや、言ってないぞ断じて」
「そうか……ふっ、所詮私は元非行少女。いくら頑張っても乙女の魅力は備わらないんだな……料理も炊事も頑張っているのに、やっぱり朋也は他の女の方が……」
「それは違うぞ智代っ!いくら椋がきれいだったとしても、お前のあれに勝るものはないからな」
「朋也……」
「智代……」
また始まった。智代ちゃんの妄想暴走から岡崎説得、そして二人の世界へ逃避行、というパターンはもう某パン屋の夫婦のやりとりみたいにコンボ化されている。
「じゃあ、僕はここで……って、聞いてませんねぇっ!!」
手を振っても二人はいまだにお互いしか見えていなかったりする。ああもう、この万年新婚バカップルは……
今日、僕は久しぶりにこの街に戻ってきた。高校三年の時のクラスメートで委員長だった藤林椋とその彼氏の柊勝平の結婚式に呼ばれたからだった。はっきり言って、こういう会に呼ばれるのは嬉しいけど、何だか現実離れしている気がしてならない。恐らくそれは、僕にそういう縁がないからなんだと思う。
去年、親友と言おうか悪友と言おうか、まあ一緒に馬鹿をやっていた岡崎と智代ちゃんが結婚した時に、ふと二人が僕とは全然違うところにいる気がした。恋愛とかそういうのが当たり前に似合う二人は、僕と住む世界が違う気がした。
別にだからどうってわけでもないけど。
二次会が終わって、僕は駅に向かった。明日も一応仕事は休んであるけど、早く家に帰って明日はごろごろしていたかった。そう言えばまだ忙しくて読んでない漫画があったなぁ、と思いながら近くの駐車場を通りかかったとき、僕は見慣れた顔を見かけた。
彼女は駐車場に止めてあったスクーターと格闘しているらしい。しきりに「どうしてよ、もうっ」とか言いながら地団太を踏んでいた。恐らく酔っぱらっている。
「おーい、杏」
ん?と彼女が振り向く。やっぱり顔が赤い。
「何だ、陽平じゃないの。何やってんのよこんな所で。あと黒い髪似合わないから、また金髪に染めてよ」
「あんた、僕が金髪の時も散々似合わないだのなんだの言ってませんでした!?」
「じゃあいっそ坊主になって」
「会社首になるって!それより杏こそここで何してんの」
「見りゃあわかるでしょ見りゃあ。家に帰るのよとっとと。明日あたし仕事あんだかんね」
「酔っ払ってスクーターに乗ったら、また人轢くだろ」
「いいのよ轢いちゃって。どいつもこいつもあいつもそいつもみぃ〜んな轢いちゃって、み〜んな勝手に幸せになりゃいいのよ」
そう言えば委員長と柊ちゃ…勝平も、杏が勝平を轢いたことで知り合ったらしい。
「やめろよ杏。保育園の先生が刑事裁判なんて、笑えないって」
「うっさいわねヘタレのくせに。あんたも轢いてあげようか?そうしたら女の一人や二人といちゃついて、付き合いできるんじゃないの?」
「いや、普通に死ぬし」
「ヘタレのあんたが死ぬわけないでしょ」
「はいはい。じゃあバイクから降りようね」
は〜な〜せ〜と暴れる杏をスクーターから引き離す。すると、杏はいきなり地面にへたり込んでしまった。春の日に似合ったワンピースに泥がつく。
「杏、ドレス汚れるよ?」
「うっさいわね。あたしの勝手でしょ……」
「ほら、立つよ」
強引に引っ張り上げようとしたが、逆に引きずり落とされてしまった。
「ヘタレ」
「うっさいなあ」
不意に胸倉をつかまれ、杏にじっと睨まれる。本来なら竦み上がる所なんだが、眼がとろ〜んとしているからあまり怖くない。
「陽平、あんた暇?」
「何だよ、僕はこれから帰る所なんだ」
「じゃあ、暇なのね。はい、暇決定」
そう言うが早いか、杏は立ち上がると、僕を引きずって駐車場を出た。
「痛い痛いつーか僕のタキシードのズボンが擦れて摩擦熱で燃えてるんですけどねぇえ!!」
「付き合いなさいよ。朝まで飲むわよ」
やってられるもんですか、と彼女は吐き捨てた。
「本当に全く、やってられないわ。あ〜あ」
今晩、それを僕に言ったのは三度目だった。
僕達は駐車場と駅の間にある居酒屋の奥の方で飲んでいた。正確に言うと、杏が飲み潰れるのを僕は見守っていた。
「別にいいだろ、椋ちゃんが結婚したって」
「よくないっ!よくないわよ!あたしがお姉ちゃんなの。わかる?だからあたしが最初に結婚するべきなの!わかる?」
「んなこと言われても……」
「大体椋も椋よ。勝手に勝平なんかと付き合って結婚しちゃって……朋也はどうするのよ?あんなに好きだったのに、智代と付き合い始めたらすぐに乗り換えちゃってさ」
ふん、と鼻を鳴らすと、ぐいっとコップの中の酒を煽った。
「そんなもんだよ、恋愛なんて」
不機嫌そうにコップを睨む杏。僕は肩をすくめてビールを飲み干した。
「ねえ……あたしがさ、朋也のこと好きだったって言ったら、信じる?」
静かな口調で杏が言った。
「信じるも何も、わかってたさ。僕も智代ちゃんも、それぐらい気づいていた。わかってなかったのは岡崎だけだろ」
「そうよねぇ、あいつ鈍感だし、智代しか見てないし」
「今でも……好きなの?」
こればかりは聞いておかなきゃいけなかった。岡崎と智代ちゃんの友人として。
「まっさかぁ。大体、あたしってさ、朋也のことも好き……って友達としてよ?好きだけどさ、智代のことも好きなのよねぇ。だったらさ、好きな二人が一緒になってさ、めでたしめでたし、ちゃんちゃんってね」
「そんなに仲良かったっけ、お前と智代ちゃん?」
「張り合ってたの昔のことよぉ。今じゃもう友達よ?あいつになら」
朋也譲ってよかったなぁ、と声にならない声で言った。すると、急に杏の頬を、透き通る涙が伝った。
「お、おい、何泣いてんの?杏らしくないなぁ、次はもう辞書投げなくなったとか言いそうだね」
「え?泣いてるの、私?」
「って気づいてないのかよ?ほらもう泣くなって」
言われて初めて気づいたように、杏は手の甲で目を擦り始めた。
「何で泣いてんのよあたし……やだ、陽平見ないでよ」
「はいはいっと」
僕はため息をつきながら背を向けた。後ろから杏の一人声が聞こえる。
「やだ……馬鹿みたい。何よそれ、何であたしが泣かなきゃなんないのよ……やめてよ。何でよ……何であたしが……」
不意に、杏がポツリと一言漏らした。
「何であたしだけ、残されちゃうの?」
相当飲んでいたことは、その赤い顔から結構容易に想像がついた。僕の知ってる杏は、愚痴なんてこぼさないから今のだって酔った勢いで出ちゃった戯言だったのかもしれない。それでも僕の耳にはなぜかそれが今までずっと貯め込んでいた本音に聞こえてしまった。
しばらくすると、嗚咽が静まって、規則正しい呼吸音が聞こえた。振り返ると、杏は組んだ腕に頭を乗せて寝ていた。僕はタキシードの上着を脱ぐと、杏にかけてやった。起きてたら邪魔だとか言いそうだけど、これで風邪をひきでもしたら後味が悪いし、よくわからない理屈で僕のせいにされる気がした。
そう言えば、ここの勘定どうするんだろう?ふとそう思って杏が財布持ってきてるかどうか確かめようとしたけど、結局はやめといた。
しょうがないな、今日は僕のおごりか。